500形

500形~忙しい時の頼れるクルマ~

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 1960年代の高度経済成長はモータリゼーションの発達という結果を生みました。鉄道を利用して駅からバスや徒歩で会社に向かうよりも会社に自家用車で行くことを選ぶ人が増えるようになりました。それにより、城電の利用客は頭打ち状態となりました。メインの利用者は、車を運転できない高齢者や子ども、割引率の高い通学定期を利用する学生が殆どを占めていました。城中は県で第二の都市といっても一地方。鉄道網が発展しているとは言いがたい。だったら小回りの効く自家用車を利用する人が増えるというわけです。

 しかし、1973年にオイルショックが発生するとガソリンを使う車、特に自家用車の利用を避けるようになりました。通勤も自家用車から電車利用に切り替える人が増えました。ラッシュの時間はホームに入りきらず、入場制限が敷かれるのは日常茶飯事の光景となりました。乗車率250%は当たり前、積み残しまででる有様。しかし自家用車は通勤に使えない。これでは利用者のイライラはピークに達します。それに拍車をかけたのが1970年代に入ってからの国鉄の順法闘争です。こんなことやっていれば地元住民から見向きがされなくなると思うのですが…。実は、以前は城電でも労使間対立が激しかったのですが、この国鉄順法闘争で城電にお客さんが流れてくる光景を見て、少しは歩み寄っているようです。現在でも労使間対立はあることはあるのですが、実行に移す前には解決しているようです。
 さすがにこの混雑ぶりを見かねて1973年3月に城電ではダイヤ改正を行い、特にラッシュ時の運行本数を増やしています。同年に200形・250形を3編成9両を入れたりもしています。しかし、当時は2両編成の100形および18m車の200形が主体のため、どうしてもホームのお客さんを捌くにも限度がありました。特急用の300形は通勤用に適さないのは明白です。そこで、輸送力増強のために翌年の1974年に500形が導入されました。

 500形の主眼は輸送力増強、特にラッシュ時の当時の混雑率250%から200%あたりまで減らすことでした。そこで、車両長さは19m級(18,500mm)の4ドアを導入することになりました。全長が1m、ドア数1つ違うだけでホームに入りきらなかった乗客を攫い運んでいってくれる。この収容力に城電は非常に驚いたといいます。
 起動加速度を3.5km/h/sと高くとり、歯車比も6.06と高く設定。モーターも120kW×4と高出力にしてあります。当時の地方私鉄の通勤用車両としてはハイスペックで朝のラッシュ時に重点的に当てられました。城中と北城中間0.8kmを営業最高速度90km/hまで高加速し、ブレーキ一発停車という様はまさにゲームセンターのシューティングゲームで敵を一発で仕留める様を思い出させてくれます。
 制御方式は、抵抗制御では空転が激しく特に雨の日のラッシュ時には思うような力を出せなくなるため、この500形はバーニア抵抗制御を採用しています。
 一方、そのほかの部分は大きく見切っており、台車はミンデン式ではなくペデスタル式の国鉄DT21形台車を採用しています。最高速度が100km/h以上では乗り心地が損なわれますが、幸いにも当時の最高速度は90km/hであったので「よし」とされました。また、この台車では同時開発の小型軽量中空軸カルダンモーターであるMT46Aを搭載することを前提としているため、これに倣いMT46Aを採用しました。幸いにも駆動方式は使い慣れたものであるため、技術者たちからも歓迎されました。窓はユニット窓の一段上昇窓を採用しています。

 そして、忘れてはならないのが塗装です。クリーム色に塗るのには変更はありませんが、この500形より赤のラインがテープに変更されました。

 幸いにもこの500形の導入により、250%あった乗車率が180%程度まで下がることに成功。城電の目論見は当たったということになりましょう。
 2010年より土居中鉄道へと譲渡されていますが、現在でも3編成9両がデッドマン装置を取り付けられて元気に運行しています。

  • 最終更新:2011-08-26 21:01:54

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